株式会社ホテル銀水荘として法人化50周年を迎えることが出来ました。
今後とも
「あたりまえのことをあたりまえに
あたりまえのことをそれ以上に」
をモットーに真心のおもてなしを続けて参る所存でおります。
倍旧のお引き立てのほど、切にお願い申し上げます。
生まれは東京、でも入社して3年目には稲取に土地を買って家も建てて、人生の半分はここで過ごしています。
次長補佐から班長まで、団体旅行の宴会チーフなど、責任のある立場もたくさん任せていただきました。
当時の旅行幹事さんや社員旅行でお越しの社長さん、馴染みの添乗員さんはもうどんどん偉くなったり、世代交代されたりで…。でも嬉しいことに、今はその息子さん、お孫さんが旅行に来てくださいます。
旅館でのおもてなしは、丁寧にすること、おいしいものを召上っていただくことはもちろんですが、例えば若いお母さんに、お子さまと一緒に旅館で過ごす際のコツをそれとなく教えて差し上げたり、慣れない旅行幹事さんや添乗員さんを、さりげなく盛り立てて、顔を立てて差し上げたり、することも大切かなあと思っています。
そういったことで「銀水でよかった」「あなたでよかった」と言っていただけることもまた、喜びのひとつですね。
気持ちよく利用していただくことが、なによりのもてなしと考えています。
お電話をくださるお客様の中には、私が生まれる前から銀水荘をご愛顧いただいていた方も多くいらっしゃいます。
親子二世代、三世代でご来荘のお客様は、私にとって大先輩。
教えていただくことも多く、日々、気づきの連続です。
そういうわけで、まだまだ勉強中ではありますが「あなたの案内がとてもよかったから」と、受付や最終確認でお電話をしたお客様からチェックイン時にお呼びいただけることもあり、直接お顔を見てお客様とお話できる機会はとっても緊張しますが、やっぱり嬉しく、また励みになります。
伝統への責任、お客様第一主義を強く心に誓い、また次の50年へと銀水の襷を繋いでゆきたいと思います。
温泉がなかった当時の稲取は半農半漁の漁師町。
そのような稲取で銀水荘の前身「金鵄館」は昭和の初め頃より割烹旅館として営業しておりました。
◇名物「風呂敷カツ丼」
戦後、飲食店などなかった当時は食事は全て旅館で対応しておりました。
ご注文をいただいてから炊飯を始め、作ってすぐのあたたかいうちに配達する。カツがたっぷりと丼からはみ出すほどの「風呂敷カツ丼」はいつしか稲取名物と呼ばれるほどになりました。
◇薪の代わりにオガクズを利用
燃料はほとんど薪を使用していたその当時、「金鵄館」では経費節減のために製材所のオガクズを使用していました。女将が大きな麻袋いっぱいにオガクズを詰め込み、リヤカーで運ぶ。そのオガクズを乾燥させ、薪のかわりに炊事や風呂焚きに使っていたのです。
◇念願の温泉の湧出
地元の有志5人で念願の温泉を掘削したところ、念願の温泉が湧出。その温泉を引湯して、温泉旅館「金鵄館」として営業をスタートいたします。
客室も10部屋から15部屋へ増築し、秩父長瀞の石を使った大浴場を作り上げ、お湯がかかると様々な色彩に変化する大浴場(岩風呂)として稲取の名物になりました。
◇金鵄館のお料理
冷蔵庫がまだ普及していない当時、新鮮な魚料理を提供することは大変な苦労が必要でした。
「金鵄館」では大きな切身のお刺身や、尾頭付の金目鯛をお出ししたり、熱い茶碗蒸し、冷たい水貝、あたたかい揚物など、冷たいものは冷たいうちに、あたたかいものはあたたかいうちにお出ししておりました。今日の銀水荘のお料理をお出しする際の原点が「金鵄館」の時代からありました。
「金鵄館」は街中にあった温泉旅館のため、残念ながら旅館からは海が見えませんでした。
銀水荘創業にあたって、どうしても海が見える場所という決意を固め、昭和32年3月18日、「銀水荘」は木造2階建、13室60名収容でスタートいたしました。
◇保証人の方々のご好意
建築費用はその当時で1300万円。銀行といえども、そう簡単にはご融資いただけません。多くの方々のご尽力をいただき、何とか銀行からの融資をうけることができました。今日の銀水荘があるのも、その方々のご好意のお蔭でございます。本当に感謝しても感謝しきれません。
◇銀水荘の二本柱
新興温泉地にある開業間もない温泉旅館。それが創業当時の銀水荘の姿でした。どうすればお客様に感動を与えてお帰りいただくか、そのことのみ考えました。やはり海のそばに立地している旅館なだけに新鮮な魚介類の磯料理を食べきれないほどお出しすることと、かゆいところまで手の届くような心配りを徹底的に行うことで、お客様に感動を与えること。この2つを銀水荘の二本柱として社員教育を行いました。
後に、二本柱の「お料理」と「サービス」に「社内教育」を加えたものが銀水荘の三本柱となりました。
◇銀水荘専用源泉の掘削
開業当初に使用していた源泉は共同源泉であり、引湯して使用しておりました。今後の発展のためにも銀水荘専用源泉の必要性を感じ、掘削を進めたところ、湧出温度81.8℃、毎分270リットルの専用源泉を掘り当ることができました。これにより増築を行い、収容人数を当初の60名から120名までに増やすことができました。
◇伊豆急行の開業
伊東~下田までの東伊豆を走る伊豆急行が開業したのは昭和36年12月9日。伊豆にとっては江戸末期の黒船来航に匹敵するほどの大きな出来事でした。開業後1年、稲取にも急行が停車するようになり、飛躍的に町が整備され、銀水荘も発展することができたのです。
創業当時の「稲取銀水荘」は本当に小さな温泉旅館でした。営業にあたり、言葉では言い尽くせない苦労と、その後の苦難の道程がございました。
◇社長自らの営業活動
当時の稲取は知名度もない無名の新興温泉地。決して恵まれていると言えない立地条件でした。その頃は宿泊料金は800円から、新婚旅行は1500円程度でした。建物の前の道路は未舗装の上、草ぼうぼうの中にある温泉旅館です。社長自ら東京の旅行会社に足繁く通い、熱心なセールス活動を展開いたしました。
◇伊豆大島近海地震
昭和53年1月14日、伊豆大島近海地震が発生。東伊豆はマグニチュード7.0、震度6という規模の地震でした。銀水荘の内装も少なからず被害を被りましたが、昼時の地震だったために、幸いにも滞在のお客様はおりませんでした。ただ、散策をしておられるお客様もおりましたので、港までお送りし、船で熱海や伊東まで帰っていただきました。
◇半年間の完全休業状態
伊豆大島近海地震では、不幸中の幸いで施設の被害は軽微でしたが、道路や鉄道などの交通手段が途絶してしまいました。伊豆急行の復旧は地震から5ヶ月後、国道135号線が全面復旧したのが半年後。この間はお客様は全くお見えにならず、完全な休業状態でした。交通手段が復旧してからお客様もお見えになるようになりましたが、元の状態に戻るまで1年もの時間がかかりました。
◇著名繁盛旅館の視察研修
稲取銀水荘近代化改装を行うにあたり、社内に「稲取店近代化プロジェクトチーム」を設けました。鉄筋コンクリート造りの高層建築というガイドラインはできていましたが、和風か洋風という大問題がありました。そこで、全国各地の有名旅館、一流旅館、繁盛旅館の情報集めを行い、また実際に足を運ぶこともしました。
最終的には社内の幹部の投票でどのような施設にするのかを決定することになり、結果、「桃山時代を連想する古都の趣を伊豆に生かした、雅の心をテーマとする」建設方式が決定したのです。
◇稲取銀水荘 新館オープン
昭和58年10月8日稲取銀水荘が新装オープンいたしました。
新館の概要は地上10階、120室、640名収容で全ての客室から海が見えるようになっております。こうして「桃山時代を連想する古都の趣を伊豆に生かした、雅の心をテーマとする」近代建築の粋と純和風の建築美を融合した稲取銀水荘の近代化改装は無事終了いたしました。